稽古への姿勢
先日、中国地区の春季大会がありました。
この大会で以前に増して感じたのは、我が流派においては、各道場での指導者の
指導に恐らく違いがあるという事。
この大会は、型の演武の優劣を競い合うのですが、おそらく武術における
「型」の位置づけ、その意味といった基本的な認識の違いが先ずあり、
「型」稽古で習得すべき身体操法の違いがあり、さらに、型で設定されている
相手の位置や状況、斬るべき場所と斬る方向と斬り方、要求される技術などの
解釈が指導者により違いがあるとつくづく感じます。
その指導の結果として指導される側に反映された姿が見受けられます。
型の演武においては、仮想敵を自分と同じ身長と想定して行うのですが、
敵がいない自分本位のご都合よい刀の振り回しや、斬る場所が違っていたり、
古武術ではなくスポーツ理論の身体操法だったり。
型での習得で要求される事や、斬る場所が違うという決定的な落ち度が
優劣の評価にどの様に反映されたかが、もし公開されたならば・・・
武術における「型」は、先人が体験と研究と苦労を重ね、今のように安易に
マニュアル化したりせず、今のように画像を始めとした表現力の乏しい時代に、
武術の身体操法の理論と習得すべき能力を集結させた日本の古武術において
最も大切にされる稽古方法であり、決してパターン練習のひな型でもなく、
本来、演ずるためのものではないのです。
それを居合術ではなく居合道という「道」において、生死を超えたところでの
闘いの遣り取りのなかでの対処をどう行うか、心の表現も含めて仮想敵にて
実施する。それが演武だと己に言い聞かせるように私は受け留めているのですが、
さて他の方達はどうなのか?
日本の伝統的な「道」のつくものには茶道や花道を始め数多くあり、その道で
修得する精神性には多くの共通点がある訳ですが、居合は人を斬る武術である以上、
そこから得るべき精神性は、生死を前提とした術の修行要素を蔑ろにしては
辿り着けないものだと私は思います。
by yonagosinbukan
| 2024-03-19 11:40