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月影日記

jose84.exblog.jp

この世を照らす光あらば、闇夜を斬る影もあり

春季の中国地区居合道大会がありました。
多くの方が緊張した様子で、なかには自分の順番の前、
手が震えている人もいたり、
ガチガチに体中に力が入っている人がいたり。

何度も地区大会や全国大会への出場経験がある人は、
それらとは違った様子で、
とにかく「優勝」への意欲が見て取れました。

試合の演武なので、仕方ないといえば仕方ないのですが、
「型」の完成度を競うというよりも、演技力で見せる演武に
なっている人が何人も。

居合道の「道」として学ぶというところの「心の持ち方」を
表現しているのであれがまだしも、
カッコよくサムライっぽく演じて見せる居合は如何なものか。

今回の競技の結果に表れているもののひとつとして、
連盟の指導通りの形(かたち)を追っかけた者と、
それに加えて演技力を見せた者との闘い。

大切なものを忘れた居合にならなければと
心配と警戒心をもった競技大会でした。




# by yonagosinbukan | 2019-03-18 08:57
先日、今年に入って初の特別稽古をしました。
古武術の身体操法に興味がある、あるいは私の居合に対する考え方に
ついてきてくれる数人の方との稽古です。

なかなか日常の体の動かし方とか、特に日常生活とも違った運動するときの
概念が、スポーツに慣れ親しんだ感覚が染みついているので、「蹴らない」
「捻じらない」とか、「腰での重心移動」とか、「順体」とかの
理屈も感覚もイメージを持つことすら難しい稽古。

私もどこがどう違うのか、書物に書かれている古武術の意味を探りながら、
経験から何となく抱いたイメージをつくり、そのイメージを仮定として
とりあえず実現できるかを積み重ねて少しずつ検証しながら、修正しながら、
稽古を重ねてきました。
まるで科学の実験のような進め方で、仮定と実証の繰り返し。
ただ、私自身が未熟であるため、実証自体が容易ではなく、
途中で、正しいのか間違いなのかも解らず稽古してみるといった
進め方なので、とても時間がかかり今日に至っております。

それでも、私と一緒に稽古する若い方たちが、私の体を押さえていたり、
腕を掴んでいたりしている状況から、私の動き出す体に触れていて
何だか不思議な感覚だと言ってくれるのを手探りの糧としています。

何百年も前に工夫され追い求められて見出されてきた古武術の動き、
身に付けるのは容易ではありませんが、奥の深い謎解きのようで
楽しくてしょうがありません。
一緒に謎解きに参加してくれて、その成果を身に付けていく喜びを
共に感じてくれるお弟子さんたちにも感謝です。

# by yonagosinbukan | 2019-01-23 13:44
このブログには何度も稽古の考え方として、演武のための稽古への
警戒心を書いてきましたが、あえて繰り返しますと、ゆっくりとした
動きで型を稽古するのは、身体の様々な動きを同時に動かす事の
難しさ、また、相手に初動を気付かせない余分な力の入らない
溜と弾みを起こさない動き方、その動きを身につけるために、
ゆっくりと、力まない動作を繰り返し稽古していく。
その繰り返しによって身に付いていく感覚や動きが、
早く動ける、相手より先に制する事の出来る動きになっていくからです。

最近、他者の居合を観る中で、「速さ」を勘違いしているのだろうと
感じるものを観ました。
正座から斬り付けまで、とにかく早くしようとしている演武。
しかし残念ながら速さの「質」と、速さの出し方が違う。

スポーツでは、筋力アップとトレーニングを重ね、「速さ」を
追求するのは重要な事なのですが、その出し方が古武術とは違います。
多くは瞬発力を発揮しスピードを出すのですが、そのために溜をつくり、
捻じりをつくったりします。
しかしこの場合、この初動が相手に気付かれ、逃げられたり対処されたり
します。
ボクシングなどでは、なかなか避けられないパンチというのは、初動が分かりにくく、
どの様にパンチが来るのか、その軌道もタイミングも分かりにくい打ち方で、
スポーツでも格闘技系には古武術にある部分、共通するものがあります。
そのような経験が無い方には分かりにくいかも知れません。
したがって、スポーツの感覚を捨てて、古武術としての稽古を繰り返した方が
良いと私は思います。

とにかく、技量が伴なうスピードでの稽古が肝心で、スピード違反は
事故のもとです。


# by yonagosinbukan | 2018-11-05 18:05

約1年前から機会を頂き、大山大神山神社奥宮の例祭で奉納居合をさせて頂くように

頂くようになりました。

居合奉納_e0275004_10530105.jpg

霊峰伯耆大山は古代から神の山、というより神そのものとして崇められてきた山で、

その約1,000メートルのところにある大神山神社奥宮、冬の積雪時に祭事が

出来なくなる事から麓に社殿をつくり、冬の間は、そこにお参り出来るように

したのですが、近代になって麓のほうが本殿として登録され、元々の大神山神社が

奥宮とされ現在に至っているそうです。

その歴史と由緒ある大神山神社奥宮、最近はパワースポットとしても有名だそうですが、

その幣殿(国指定文化財)での奉納居合をさせて頂くようになりました。

居合奉納_e0275004_10512436.jpg

これまで演武は競技として、或いは演武会、イベントなど何度もしてきたのですが、

大神山神社奥宮での奉納居合は、自身の「境地」が全く違い、まさに、

「神に自身の修行の成果を奉納する」という次元で、変な緊張感のような

ものが無いのです。

この一年の体験は、私の修行に大きな影響を与えたと思います。

この独特な境地を与えて頂いた大神山の神、

そして宮司をさん、関係者の皆様に心から感謝し、

今後の修行に励み、今後も感謝の居合奉納をさせて頂く所存です。


# by yonagosinbukan | 2018-11-02 10:53
最近は、日本刀や城など、江戸時代以前の武士文化への関心が高く、
また、武道を学ぶ人たちも、武道雑誌などで古武術と現代武道の
違いがあることを知っている方が多くなってきました。
勿論、雑誌を読んだくらいで古武術の身体操法の違いが解りはしないのですが、
しかし明治以降、そして第二次大戦後に、日本の「武術」が「武道」という
名のもとに変わり、その武道の哲学や理念も、戦争時に「武士道」が
都合よく解釈され利用された経験から、多くのものがスポーツ化してしまい、
「術」としての身体操法や考え方も形骸化したり、西洋から伝わった
体の使い方とかスポーツの運動理論に飲み込まれたものが
大半を占めてしまっているのが現状です。

私が修行する居合でも、「型」の稽古の捉え方が、本来の稽古方法や型から
何を知り、何を習得するのかを見失い、何のためにゆっくりとした速さで
稽古を重ねていくのかを見失い、生死を掛けた起死回生の術の習得で
あることを抜きにして、どのようなイメージと自身の精神的な追い込みを
しているのか、それらを抜きにして、どんな「道」の精神性を習得しようと
しているのか分からないものが多く、演武や演武競技のために見栄え良く、
侍を演出するような「形」の披露のための稽古が目立ちます。

さて、そのような客観的状況の中で日々の稽古をしているのですが、
ここ一年間で新しい人が数人入門し、稽古をしています。
先日、館長が、「まず真似をしろ!」と檄を飛ばしました。
習いたてで、まだまだ出来ない事が多いのですが、出来ないゆえに
自分がしやすいようにしてしまう事への注意です。
初心者にはありがちな事ですが、ある程度の段位をもった者も、
自分本位の稽古になってしまっている事への注意。

先ず習う。先ず真似からはじめ、指導に沿った稽古を重ねるのが
習い、教えを乞うというもの。
要求される事が出来るようになるまで、それまでからもつ問題意識や
研究をもとにした自分の稽古は並行して取り組む。その稽古は内緒で
もくもくと研究しながら重ねていけばよい。
また、師の教えで分からない事、理解できない事は聞いていく。
そして師匠に追いついた、あるいは超えたと感じた時から、自分の居合が始まる。
これが守・破・離。
私はそう心得て修行しています。

自画自賛で師匠の教えが必要ないとするならば、教えの場から去らなければならない。
自分の常識や知識や技量を買いかぶり、形骸化した居合を知らず、あるいは
気づいていても受け留めようとせず、師弟の関係を蔑ろにするようでは
稽古の場は成り立たず、本人の武道の道はまともには進めません。

稽古の場を同じくしようとする者たち、よくよくこの事は心得ておくように!

# by yonagosinbukan | 2018-10-29 09:37

by yonagosinbukan