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月影日記

jose84.exblog.jp

この世を照らす光あらば、闇夜を斬る影もあり

先日、久しぶりに山陰と大阪の同門が集まり、合同稽古をしました。
この度の稽古のメインは組太刀。
現在の「太刀打之位」7本は、第17代以降に再編されたもので、
剣道型に近いものとなっております。
道場に通う門下生たちに、剣術の間と間合い、かけ引きなどをイメージさせる事が
なかなか難しい現状を鑑み、稽古することとしました。

私個人としては、古伝がそのまま伝承されず、再編された事は残念極まりない訳ですが、
この謎解きも修行。
現在のものを取っ掛かりとして、古武術的な観点で捉えなおしながら役立てて
行こうと考えております。

ただ、この度の稽古に至る前に手に入る映像等を改めてチェックしてみたのですが、
そこで気づくのは、刀の特性に対する観念が抜け落ちているのではという事。

例えばスポーツをみても、道具を使用するものであれば、テニスラケットにしても、
野球のバットにしても、その特性を理解し、身体操作と一体的に目的達成のために
調整したりカスタマイズしたりします。
特に、特性を知っておく事は重要です。

しかし、残念ながら居合道では、観賞用の知識を見受ける機会は時々ありますが、
日本刀の優れたところや強さと弱さなど、その特性を知るものは少ないような
気がします。その事は演武の際に出ております。

高価で大切な刀の耐久試験など出来る機会をもてる者はそういないでしょうし、
据え物斬りを禁じられている流派でもあり、難しいことなのでしょうが、
その気になれば、江戸時代の文献や、戦時中の軍隊が軍刀をつくるための調査・研究で
判明した特長などを知る事は出来ます。

古武術としての身体操法の原理と併せて、刀の特性を知る重要性を強く感じます。

観賞用ではなく、武器としての刀の事を知らない居合術はありえない!
死生感を土台にした居合術をベースにしない居合道の「道」の習得は、
その方向性を大きく変えるものになる事への警戒感を強く持たねばと、
改めて感じるところです。
# by yonagosinbukan | 2017-07-25 10:39
昨日の稽古は、私の師匠の指導を受けに来られた他県の先生達も加わり、
なかなか面白い稽古となりました。

館長はその他県の先生方を指導することから、真武館メンバーには
私が単独で指導。
昨日は当流の型のうち、「正座の部」を理合いをいつもより詳しく説明しながら
稽古しました。

各「型」の理合も勿論大切なのですが、そもそもの身体操法における
「古武術化」が指導する上で最も困難な課題。これは指導される側が
どれだけ修練するか、そのための考え方や常識化している日常動作を
如何にリセットして取組められるかが難しいところです。

昨日稽古した「正座」は、現代人は日本人としてアタリマエの日本的な座り方と
捉えているでしょう。さらに言えば、そのアタリマエの日本的な座り方が
しんどくて続かない人も多くなってきています。

そのアタリマエの「正座」、一般日本人の日常生活に普及したのは昭和に
なってからという事は、あまり知られておりません。
正座の座り方自体は古代からあり、これは日本だけではなく、世界的にあります。

この座り方は、神に対する座り方であったり、罪人であったり。
つまり、刃向かわない、刃向かえない座り方。

これが神事や裁判など以外で、特に日本のサムライ文化に取り入れられたのは、
徳川の時代に入った初期の頃といわれています。
一見、仲間と思っていたり、安心しているところで襲い掛かってきたり、
そんなリスクを排除するために城中で対座するものにさせた座り方とし、
その後、武士階級、さらには武士を相手にする商人などに伝わっていきました。

この刃向かえない座り方からの術技をどう実現するか、このことに対する
問題意識が弱いと私は日頃感じています。

このような研究課題も、身体を使った技の稽古だけではなかなか理解が深まりません。
様々な文献など文化・歴史を調べながら、そして実践的に取組んでいく。
そういう謎解きも面白い稽古になるものです。
# by yonagosinbukan | 2017-04-23 12:08
我々の重要な稽古として「型」稽古があり、多くの道場では、
それのみと言ってよいほど「型」をとにかく稽古します。

古武術にとって「型」のもつ重要な意味を深く追求していくことは
最も重要な稽古として位置付けられ、いかに「型」のもつものを習得するかに
つきるといっても過言ではありません。

しかし、その「型」のもつもの、相手に対して、身体を如何に操作するか、
刀を如何に体裁きでコントロールするか、型で想定された状況からの
変化に対応できる実践武術としての身体操法、その様な武術であり、
相手があることが蔑ろにされて、見栄えや、リズムや、そんなところが
意識された「演武」ではなく「演舞」となる事に警戒感をもちます。

よく見かけるものでは「正座」や「立膝」での座った姿勢からの
立ち上がり。
日常生活で染み付いた「正座」からの動きが、武術的なものへの
転換を邪魔します。
日頃の正座からの「よっこいしょっと!」といった動きが最悪ですね。

「型」稽古は、最速で体捌きができる動き方、身体各部の働かせ方を
ゆっくりと、身体各部の感覚を感じながら身に付けていく稽古方法です。
この稽古で得ようとする動きを繰り返し練り上げて各部のタイミングを
身に付け、滞ることなく「ひと調子」でやれるようになった時に、
最速で動ける身体操作が身に付く、そういう稽古です。
実際の実践場面では「0.0何秒」のスピードで行われる技を、
20秒も30秒もかけて行う「型」の稽古の意味をもたず、
20秒、30秒かけて人に見せる演じ方を身に付ける稽古ではないのです。

明治維新前後に日本に入ってきた西洋の軍隊様式での動き、
スポーツが盛んになり、子供のころから見につけてきた動き、
現代の生活様式での暮らしで身に付いた動き、
などなど・・・。
現在の自分の動きを意識・無意識、特に無意識に体に染み付いた動きが
古武術の働かせ方を邪魔します。

昔の武士、そのなかでも武術の修行をそれなりの師のもとで習い、
修練して身に付ける身体操作は、いわば軍事技術であったので、
一般庶民の知るところでは無かったもの。
その隠された術を学ぶという事は、真面目さや根性だけの
問題ではなく、術理に対する研究と修練の方向性が正しいのかどうなのか、
その探究心が重要です。
だからこそ、謎解きのような面白さもあるのです。
# by yonagosinbukan | 2017-04-03 17:14
先日(3月26日)、大阪・堺市で全日本居合道連盟の刀法講習会が開かれ
参加してきました。
刀法とは、全居連が複数の流派で構成されている事から、それぞれの流派のもつ
剣理、技などの違いがあっても、共通する居合道に対する考え方に立って、
心・技・体を修練するために、構成する主な各流派の技から連盟として
設定した型5本を云います。

この刀法について毎年この時期に、全国の連盟所属の各道場の指導者レベルの方を
中心に講習会が開かれている訳です。

現在、全居連の会長は我が無双直伝英信流の第22代宗家で、遠く山陰に地に住む私は
何かと気にかけてご指導頂いております。
講習会が終了し、着替えを済ませ、帰る前に宗家にご挨拶に行きました。

その際、山陰の地で何とか頑張っている報告と、齢89歳になる宗家には
健康に留意されるようと申し上げたところ、とてもにこやかに「ありがと、
ありがと」と、先ほどの講習の時の気迫とは打って変わっての表情。

しかし、居合の事について、山陰での稽古・修練、「お前がやれ!」
「何か解からん事があれば、わしに聞け、わしか、23代の福井君に聞け」
「周りでなんやかんや言うやつがおっても、そんなん聞かんでもいいから
お前の好きなようにやれ!」という言葉を頂きました。

「お前の好きなようにやれ」「わし(22代宗家)か23代に解からん事は聞け」
この言葉は実に嬉しい反面、実に重たい。
他の人の術理解釈など聞かず、「正統・正流を守れ」という事。
非常に重たい事なのですが、励みになります。
# by yonagosinbukan | 2017-03-31 11:05
昨日(3月19日)、全居連の中国地区春季居合道大会が開催されました。
今年の演武大会のシーズンが始まりました。

ここ数年の大会を見てきて、今大会で感じるのは、高段者の先生方それぞれが、
これまで模索されてこられた自身の居合のスタイルをなんとなく固められ始めたのかな?
という感じです。

勿論、居合の修行は一生ものですから、それで固まったという事ではないのですが、
これまでも感じてきた居合の方向性のそれぞれの違いは、ある程度明確で、
その道筋の中で目指すスタイルというか、その様なものが目立ってきたような
気がします。

居合道の「道」の習得をどのように考えて、その道筋を辿るのか、その違いが
演武に現れてきます。

元々は江戸時代までの実践武術であり、日本刀で斬るという技の習得を通じて
何を学び、何を習得し、何を活かすか、
他者に向ける刃は、向けた瞬間から自身の心に向ける刃ともなる。
自身の生死を越えた状況下において守るべきものとは何か、
そのような究極的な状況下で使われた居合術を、現代に生きる我々が
どう活かすのかという事は選択肢も多く深いですね。
# by yonagosinbukan | 2017-03-20 19:03

by yonagosinbukan